キース・ジャレットの即興演奏で行われたジャズ・インプロビゼーションの名盤 =ケルン・コンサートを採譜した楽譜のまえがき(本人著)を読むと、演奏を
するということと、楽譜という別のメディアに変換して音楽を伝えるということの難しさを感じます。映画の感動を小説化して出版するのと似ているのかもしれ
ません。
以下に、抜粋ですが本人によるまえがきをコピペしておきます。
1975年に『ザ・ケルン・コンサート』の録音がECMから発表されて以来、楽譜があればぜひ演奏してみたいというピアニスト、学生、音楽学者やその他の 人々から、その出版の要望が絶えず出されてきた。私は、断固とした態度でそれをずっと拒否し続けた。その理由は少なくとも2つある。第一の理由。この音楽 はある夜に行われたまったくの即興によるコンサートのもので、それは生まれた瞬間に同時に消えてゆくべき性格を持っている。そして第二の理由。その音楽が レコードの中で存在しているのと同じように採譜していく、楽譜に書き取っていくということが実際ほとんど不可能な部分がかなりたくさんある。
しかしながら、この即興演奏はすでに永続的な形、すなわちレコーディングされたものとして存在しているわけだ。そして、採譜はその音楽を描写=象徴して いるにすぎない(ただ、しばしば信じがたいほど、この楽譜は音楽に近づいている)。そこで、ついに私はこの監修版楽譜の出版を決意した。
―――たとえば、Part IIaの50, 51ぺ一ジ。この部分の本当のリズム感覚を獲得する方法は紙の上にはない。レコーディングでは、より多くのことが起こっているのだが、この“起こってい る”ことが、紙の上の音符にいつも翻訳されるとは限らない。かなりの音-音符が、このリズム感覚によって引き出されるのだ。その直前に鳴らされた音-音符 (あるいは音-音符の集まり、和音)の倍音やアタックそのものから生まれ出る音-音符もある。したがって、こういう部分では物理的に鳴っているすべての音 を残らず忠実に音符に書き取ることは、より多くの間違った感覚を与えるおそれがある(実際には鳴っているすべての音を弾いているわけではないから。つま り、音符として弾いているもの以上の音が実際には鳴っているわけだ)。鳴っているすべての音からいくつかの音を選んで音符にする、この方法のほうがここで はより有効なのかもしれない。さらに、こういう厳密な選択という方法を使ってもなお、こういう問題箇所の本当の感覚、ひとつの即興演奏、インプロヴィゼイ ションとしての真実の感覚を明るみに出すことは、依然として不可能だ。そこでは、ただ聴くことが、その音楽の力を正確に知る方法なのだ。
別の見方をすれば、楽譜には現れない音やリズムを如何にイメージし、演奏するのかというのが、演奏家にとっての重要な課題ということですね。作曲者が残した音源というものが存在しない―クラシックなどの世界では尚更想像力が必要なのは確かなようです。
以下に、抜粋ですが本人によるまえがきをコピペしておきます。
1975年に『ザ・ケルン・コンサート』の録音がECMから発表されて以来、楽譜があればぜひ演奏してみたいというピアニスト、学生、音楽学者やその他の 人々から、その出版の要望が絶えず出されてきた。私は、断固とした態度でそれをずっと拒否し続けた。その理由は少なくとも2つある。第一の理由。この音楽 はある夜に行われたまったくの即興によるコンサートのもので、それは生まれた瞬間に同時に消えてゆくべき性格を持っている。そして第二の理由。その音楽が レコードの中で存在しているのと同じように採譜していく、楽譜に書き取っていくということが実際ほとんど不可能な部分がかなりたくさんある。
しかしながら、この即興演奏はすでに永続的な形、すなわちレコーディングされたものとして存在しているわけだ。そして、採譜はその音楽を描写=象徴して いるにすぎない(ただ、しばしば信じがたいほど、この楽譜は音楽に近づいている)。そこで、ついに私はこの監修版楽譜の出版を決意した。
―――たとえば、Part IIaの50, 51ぺ一ジ。この部分の本当のリズム感覚を獲得する方法は紙の上にはない。レコーディングでは、より多くのことが起こっているのだが、この“起こってい る”ことが、紙の上の音符にいつも翻訳されるとは限らない。かなりの音-音符が、このリズム感覚によって引き出されるのだ。その直前に鳴らされた音-音符 (あるいは音-音符の集まり、和音)の倍音やアタックそのものから生まれ出る音-音符もある。したがって、こういう部分では物理的に鳴っているすべての音 を残らず忠実に音符に書き取ることは、より多くの間違った感覚を与えるおそれがある(実際には鳴っているすべての音を弾いているわけではないから。つま り、音符として弾いているもの以上の音が実際には鳴っているわけだ)。鳴っているすべての音からいくつかの音を選んで音符にする、この方法のほうがここで はより有効なのかもしれない。さらに、こういう厳密な選択という方法を使ってもなお、こういう問題箇所の本当の感覚、ひとつの即興演奏、インプロヴィゼイ ションとしての真実の感覚を明るみに出すことは、依然として不可能だ。そこでは、ただ聴くことが、その音楽の力を正確に知る方法なのだ。
別の見方をすれば、楽譜には現れない音やリズムを如何にイメージし、演奏するのかというのが、演奏家にとっての重要な課題ということですね。作曲者が残した音源というものが存在しない―クラシックなどの世界では尚更想像力が必要なのは確かなようです。
[いいですね] 日夜「楽譜にない音(勝手に装飾音付けまくってナンボ)」と格闘している者からすれば「そうだろうそうだろう」という感じです。
レコーディング音源てものがあると完コピしたくなるのは人情だし、私も不可能とは知りつつ挑戦してみたりはするのですがクラシカルな世界って完コピが何も偉くない=想像力+創造力が必要、なんですよね。
ましてやジャズなんて言ったらコードと決め部分以外譜面になんにも書いてないのが普通なとこにきて、もっと何もないところから生まれた即興の完コピ目指されて気持ち悪いキース・ジャレットの心情がわからないでもないです。
投稿情報: コーノ | 2007/10/29 17:57
その通りですね。この文面を見ていると、出版に乗り気でないのが明らかです。
例えば1時間余のフリートークを一字一句活字にして、喋りの間や感情の高揚などをそっくりに真似される様に自分でト書きをつけるのはつらい作業かも。
『これらすべてのことをふまえた結論。私はこの『ザ・ケルン・コンサート』を弾こうと思っているすべてのピアニストに最終的な参考資料としてレコードを使うことをお薦めする。――グッド・ラック!
』
と、楽譜が演奏の完全な再現ではないことを本人が認めています。つまり、楽譜というのはあくまで音の指標であって、生きている音を出すには、演奏者の表現力に委ねられているのでしょうね。想像力+創造力ですね。
装飾音やアーティキュレーションをどう演奏に反映させるか、どう自分なりに音に飾りつけするのかが、いい演奏につながるのでしょう。
投稿情報: irregulars | 2007/10/29 20:48